それはまさに棒読みならぬ棒歌なのに、それなのに(ピアニストの気立てのいい、簡素にシックなピアノ演奏にのせて)、彼女の声(低い声はフルートのよう、高い声はかすかにかすれたボーイ・ソプラノのよう)、彼女の息づかいが、彼女が選んだ歌とあいまったとき、なんとも魅力的なんだ。テクノの歌姫だとばかりおもっていたら、その夜だけは違ってね。ドビュッシーの『パンの笛』、フォーレの『秘密』『水のほとりで』と続くんだ。その歌いっぷりは頼りなさげでありながら、なんともふんいきがあってね、ドビュッシーの歌では、ピアノの波のような音形を彼女の声が追いかけ、フォーレの『秘密』では、4つの和音に、彼女の息も絶え絶えな囁きが、中世風の典雅なメロディに映画のような命を吹き込む。また『水のほとり』の幾何学的な音階も、彼女のフルートのような声質が歌うとき、しどけなさと、傷つきやすい繊細がつけくわえられる。また、エリック・サティの『スポーツと気晴らし』は一転してたのしかったな、日本語に訳されたサティに拠る注釈が、軽妙にパリの都市生活をかすかに意地悪く、それでいて乾いた詩として、一曲ごとに、人間たちの情景を活写してゆく。歌唱としては(きょくたんなはなし)フィッシャー=ディスカーウのような「表現力の重量挙げ」とは対極的な、むしろ(しいて言うならば)アストラット・ジルベルトのように、テイストで聴かせる系統で、それでいてはかないけれどほかの人には決して表現できない、世界にまたとないnOririnさん。ならではの表現になっていて。多少音程が不安定になるときさえ含めて、世界があるんだなぁ。そしてプーランクの『愛の小道』がまたすばらしい、AメロがマイナーなシャンソンでBメロの長調に転調するときに雲間から光が差す。そしてnOririnさん。の高域ではかすかにかすれたボーイソプラノであり、中域ではフルートのような声は、おれを、1920年代のパリへ連れ出す。コクトー率いる6人組の活躍するパリに。
さて、場面は変わって、別の美女。彼女はファニー・ヴォイスで、ピアノを弾き、歌う。いわゆるシンガー・ソング・ライターということになるかしら、彼女の声はコケティッシュな魅力があって、彼女のピアノは表現力に満ち、しかも彼女はいかにも彼女らしい、ふしぎな歌詞を書き、彼女に声にふわりと乗せる。歌詞とフレーズとピアノ演奏が、彼女というひとりの人のなかから同時に生まれていることがわかる。必要なものだけが選ばれて、大事に使い込まれた、気持ちのいい、そしてたのしい部屋のような音楽。そしてその部屋の主は、ときにおもいがけない変身をする。ある日とつぜんサメになったヒロインが、サメになったまま、部屋へ訪れる水道屋やガス屋と対応する。そういうことがあたりまえに起こる世界。しかもバックのソプラノサックスがまた、かすかにバッハのようなフレーズをさりげなく加え、夢の成分を増してゆく。そしてまた別の歌の世界が現れる・・・夜の子供たちが闇に迷わぬように橋の上で恋をしたひそやかなゆりかご・・・。間奏のピアノが夜の情景を描いてゆく、やがてバスクラリネットが(深みを帯びた艶やかな音で)歌とユニゾンになってとても美しい、ちなみに3/4拍子。そう言えば次の歌も3/4拍子、みちみちつきるもり・・・ほどけたキャベツ、溶かしたてのマニュキュア、さぐりあてた景色と情熱・・・哀愁あるソプラノサックス・・・そしてピアノもまた競い合うように情景を描き出し、やがて矢口さんはソプラノとアルト(?)を同時にくわえ、(アルバート・アイラーのような???)管の鋭角的な響きをぶつけ、音楽の緊張を高めてゆく、ひんやりした夜の闇の底に向けて音を放つように。不思議な幻想絵画のような音楽。そう、Darie さんは、歌詞とフレーズとピアノ演奏が、いったいになった音楽をたったららっら、らららんッと自在に作り出し、しかもサメになった美女の不安な実存さえ、ユーモラスに描き出すんだ。素敵だ。
ふだんは知る人ぞ知るテクノの歌姫、そのnOririnさんが第1部で、江藤直子さんのピアノで1920年代のフランス歌曲と、そして近藤亘さんのリュートとともにルネサンス音楽を歌い、そして第2部では、Darie さんが、彼女の自作曲を表現力あふれるピアノで弾き語う夕べ、彼女の部のゲストは矢口博康さん、2008年5月8日、渋谷公園通りクラシックにて。 (朱雀正道)